自分の生き方を貫き・ 死後までも仕切って逝った母 |
姉夫婦が続けてがんで死亡。そして、母までもががんに・・・。 しかし、母の場合、姉夫婦の時と違っていたのは、告知できたことと、 自らの生き方と最期の場所を選んだこと。 伊藤 由子 さん (神奈川県 53歳 仮名) |
長女夫婦を亡くした母 自分の胃がんも手遅れと知る 私はこれまで姉夫婦と母の3人をがんで亡くしています。姉も母も在宅で看取りました。 しかし、姉が亡くなった10年前は、まだ在宅医療が整っておらず、本人への告知も一般的ではありませんでした。 そのため、介護の肉体的な疲労もさることながら、"病名を告げられない"つらさまでもが家族に重くのしかかっていました。 母は胃がんだったのですが、開腹してみると、切除するのが難しいほど病巣が広がっており、食べ物の流れを良くするためのバイパスをつくるだけで手術は終わりました。 麻酔から覚めた母は、「随分早く終わったのね。どういうことかしら」と状況を知りたがりました。 私は悩んだ末、母に事実を知らせることにしました。当然ながら、母はかなりのショックを受けていました。 しかし、3日ぐらいで気持ちを切り替えた様子で、人間ってすごいなあと実感させられました。 退院後、母は私の家で療養することを望みました。 自宅に戻れば、具合が悪くても家事をやらざるを得なくなる。 それに、「あのお宅、大変だわ。娘さん夫婦が亡くなられたのに、今度はおばあちゃんよ」なんて噂されるのも、煩わしかったようです。夫も母を快く受け入れてくれたので、わが家で母の療養生活が始まりました。 在宅療養支援診療所に命をゆだね 最期の準備を着々と始める母 退院から半年後、母は激しい腹痛に襲われ、痛みの緩和にモルヒネが処方されるようになりました。 24時間365日、在宅で診てくれる、がん専門の在宅療養支援診療所を病院が紹介してくれました。 「病院では死にたくない」「好きな物が食べられない、病人にされてしまう」と言っていた母は、その提案を受け入れました。 その診療所で母は、「最後はやっぱり痛いんでしょうか」と聞くと、先生が「自分の言葉できちんと症状を伝えることができれば、ほとんどの場合、薬で痛みを取り除くことはできますよ」と答えてくれました。 また、「亡くなる前日まで旅行に行っていた人もいましたよ」と言う看護師さんの笑顔にも母は安心したようでした。 亡くなる4カ月前に診療所がある同じ建物に部屋を借りました。母は俄然、元気になりました。 築40年の日本家屋の私の家に比べ、日当たりの良いマンションが母には終の棲家に思えたようです。 そこで、1人暮らしを満喫していた母でしたが、徐々に体力が落ちていきました。 趣味やつきあいを満喫している父に、「いい加減にしなさい。あなたが中心になって看るんだから、夜ぐらいここに来なさいよ」と指示。それも私の負担を思いやってのことでしょう。 父は自然体で、今まで通りに母に接していました。買ってきたお総菜を夫婦でつつく・・・、そんな和やかな日常がありました。その一方で、母は自ら葬儀場を決め、葬儀に呼ぶ人のリストをつくり、自分が死んだ後の始末もしていたのです。 好物の寿司を食べ、お風呂に入り その時を覚悟した母 母は最後まで自立した生活を送っていました。朝はベッドから起きると、着替えて、こたつで過ごしていました。亡くなる1週間前まで大好物のお寿司を食べていました。 亡くなる4日前に診療所のスタッフに手伝ってもらって、お風呂に入りました。 さっぱりしたのか、笑顔でVサインをしてくれたシーンは忘れられません。結局、それが最後の入浴になったのですが・・・。 そして、先生や看護師さんたちに部屋に来てもらい、「いろいろありがとうございました」と頭を下げました。 痛み止めの薬も最後の5日ぐらいは飲まずに、「こんなに痛みがなく死ねるんだったら、楽なことはない。 (手術から1年後の)6月1日に亡くなりそうよ」と言った笑顔はおだやかでした。 そして、ついにその時がやってきました。呼吸がゆっくりになっていき、目を見開き、じっと何かを見つめ・・・、手を握ったらギュッと握り返してきました。でも、苦しそうな顔はしていませんでした。 いつ亡くなったかはわかりませんでした。居眠りをしていた父を呼びました。「お母さん、死んじゃったみたい」「わっ、俺、寝ちゃった」と一瞬あわてた様子でしたが、「そうか、葬儀だな」と。 母は予告通り、6月1日に83歳で逝去しました。 自分の生き方を最後まで貫き、死んだ後のことまで仕切って旅立っていったのです。 最後まで人間らしく生きるとはどういうことなのか、母は自らの生き様で私に示してくれたのです。 |
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「読者体験手記」は、『かいごの学校』(現在、休刊中)より掲載したものです。 |